「私の転機  たった一つの武器・英語」

『私の転機』

私は1968年に九州から上京、憧れの東京の大学に入学したが、2年に進級すると、まもなく親が病に倒れ、仕送りは停止。途端に生活は苦しくなった。

兄弟姉妹は6人もいたが、みんな自分の糊口を凌ぐのに手いっぱい。私に手を差し伸べる者はいなかった。父親一人の肩に、妻と7人の子供と祖母、つまり10人もの大家族の生活がかかっていた。苦しいのは並大抵ではない。もっとも、地元の中学校の校長だった父は、村中の村民から慕われていた。そのおかげで、近所の農家が新鮮な野菜や果物をかわるがわる持ってきたし、水揚げしたばかりの生きのいい魚は、食卓に絶えることはことはなかった。当時、高値の花だったバナナや葡萄が食卓を飾る日もあった。

それは、年に2回のボーナスの支給日。私達は、父の帰りを首を長くして待っていた。家の裏庭は結構広く、父が急造した鶏小屋には、毎日、家族が食べる分の卵が生まれ、祖母が毎日手入れしている畑には、食べきれないほどの胡瓜やヨマト、茄子やキャベツなどが四季折々に食卓を潤した。庭の隅には、大人の背の高さほどの朝鮮ぐみが鈴なりの実を結び、畑の奥には、見上げるほど高い甘がきの木や季節には枇杷の実がたわわに実った。当時は、土地さえあれば、誰でも食べるには困らなかった。

古いが大きな納屋に去勢牛が一頭、飼われていた。私の家は農家ではなかったが、私が生まれる前から祖母がこの牛を飼っていて、大事にしていた。祖母は、自宅から何キロも先の県道沿いの、日当たりのいい、なだらかな麦畑まで牛を引いて行って、耕したり、農作業を手伝わせた。

実に牧歌的な幼少時代だった・・・。幼い私は、これ以上の幸せは想像できなかった。

あり得ないことだが、ここで私の人生は完結しておけば、どんなにか幸福だったろう。

そんな家庭の状況だっだので、物心ついたころには、兄弟姉妹で両親の愛情の奪い合いが自然に発生してしまった。父は一人、母も一人。なのに、生まれた子供は七人。

親の愛情は均等には分けられない。

両親に特に可愛がられた私が、二人の兄達と同様、東京の私立大学に進んだことで、私をひがみ、憎む姉妹も出てきた。

つまり、姉妹達の将来を私達、3人の男の兄弟が、いずれも東京の大学進学という理由で奪ってしまったのだ。当時は、そのような考え方はできなかった。

ただ、厳しい自分の進路を開拓することに懸命で、他の姉妹のことなど、歯牙にもかけなかった、というより、考える余裕はまるでなかった。

いずれ、私達3人の兄弟が大学を出て、豊かになり、両親を楽にしてやる。だから、今、大学へ行くのだ。

そんな浅はかな考えだったと思う。今思えば・・・。

私は大学を中退して働こうと思い、先輩のところへ相談に行った。

先輩も私と同じような境遇だった。この先輩は、母子家庭に育ち、長い間、苦労したが、読売新聞社奨学金をもらいながら新聞配達の仕事を続け、独力で大学を卒業。

先輩は、その根性と努力を買われ、大企業に就職していた。

「折角、頑張って入った大学だ。奨学金とアルバイトで何とかなるよ。あと3年、身体をいたわりながら、無理しないで、卒業した方がいいよ」と励まされた。

私は、奨学金とアルバイトで学費と生活費を稼いで勉強を続けた。

ところが、悪いことは続くもので、2年生の半ばで、重篤なノイローゼになり、大学を休学。体調はなかなか戻らず、休学と留年を繰り返した。ノイローゼは次第にひどくなった。この事態に、高校時代に知り合った恋人も去って行った。彼女の両親が二人を強く引き裂いた。「あんな奴、お前の足を引っ張るだけだ。二度と会うな」と父親に言われ、辛かったのだろう、恋人は泣きながら私の前から走り去って行った。恋人を失ったのが一番きつかった。何度も入院していた病院の中で将来を絶望し、死のうと思った。

病院の一室で、鉄格子の間から垣間見える青空を通して、故郷の唐津を思い出しては、はらはらと涙が落ちた。

先輩は、そんな私でも、多忙な職場から抜け出しては、よく見舞いに来てくれた。面会に来た先輩は、私の両手を握り、「あきらめるなよ、絶対に。あきらめたら負けだからな」と励ました。

病院の周囲は自然に恵まれていた。

ある時、転勤して来たばかりの、若くて目の大きな看護師さんが私に声をかけてきた。「ひとりの世界にじっと籠ってないで、みんなと外に遊びに行ったら?」

私は驚いた。はっきりした口調で自分の口から、

「看護師さんが一緒に来てくれるのなら、どこへでも行きます」と言ってしまった。

自分でも顔が真っ赤になるのがわかった。

こうして私は、長いトンネルから頭を出し始めた。

外界は光が満ちていた。あまりの眩しさに、瞳を開けていられなかった。

看護師さんは歌の好きな患者を集めて、合唱を始めた。

「四季の詩」を教えられると、また故郷の唐津を思い起こして涙が溢れた。

春は小川に沿った堤防の上の桜並木を歩き、夏になるとカブトムシを取りに近くの雑木林に分け入ったり、ミンミンゼミを捕まえようとして足を滑らしたり、秋は紅葉した野山にピクニック。冬はスキーのまねごと。正月は院内で餅つきがあり、家庭に帰ることが出来ない患者達にぜんざいがふるまわれた。

美人の看護師さんは、私に、青春の輝きを取り戻していけるよう色んなプランを立て、それを実行した。

そうして数年の後、私は恢復し、退院することになった。

退院の時、その看護師さんが、私に小さな一輪の真っ赤なアネモネをくれた。

アネモネは、花は枯れても根は残っていて、毎年咲くのよ。あなたもきっとそうなるわ」

別れる時、看護師さんは私の手を握った。すべすべして暖かかった。

こうして私は大学に復学できた。体力が戻って来た私は、様々なアルバイトを経験し、結局、卒業するのに8年間もかかった。

就職先を探したが、26歳になっていた私は年齢制限にひっかかり、殆どの企業に門前払い。受験の機会もなかった。見通しが甘かったことを恥じた。

途方に暮れた私は、遠い親戚を頼ってそのコネでなんとかA社に潜り込もうと図ったが、徒労に終わった。A社の人事部の人が叔父に洩らしているのが耳に入った。

私は年を喰っていたばかりか、これといった資格がなかった。

1976年春、大学は卒業したものの、同期に比べると、私は病弱で体力もなく、スタートから重いハンディキャップを背負っていた。

これでは、同期生にとても勝てそうもない。厳しい就職戦線を突破できそうもない。

そう思うと先が思いやられた。次第に人生に嫌気がしてきた。

自分の短い人生は、いったい、何だったのだろう。

思い切って方向を転換し、サラリーマンを諦め、「寿司職人」にでもなろうと、

気軽に大学の近くの寿司屋に申し込んだが、足元を見られてすぐに断られた。

幾日も幾日も、職を求めて東京の街を歩き回り、足が棒のようになった。

身も心も荒んでいった。

やけ酒をあおり、ギャンブルにのめり込んでいった。

やがて、なけなしの貯金も底をつき、6畳一間の木賃アパートに、なすすべもなく、ただ無為に寝転んでいる日が続いた。

将来をどういう風に生きていけばいいのか、考える力もなく、茫然と死を考えていた。

空しい日々が続いた。それは終わりそうもなかった・・・。

寝転んで天井を見ていると、故郷の唐津の両親の顔が浮かんできた。

「なんばしよっとね?元気だして、元気出して」腰の曲がった母親の声が

何処からともなく聞こえてきた。

「あきらめたら、いかんばい。もう一押したい」

すべてに厳格で、柔剣道の達人だった親父の声だった。優しい声だった。

自分が情けなくなり、はらはらと涙を流しながら、ギターを手に取った。

うろ覚えのフォークソングを何曲か弾いて気を紛らわそうとしたが、

長くは続かず、あまり効き目はなかった。

小椋佳の歌の一節、「潮騒の浜の・・・」と口ずさんだ時、懐かしい故郷の風景が浮かんできた。

玄界灘の荒波が寄せては返す唐津の西の浜、東の浜が眼前に浮かんできた。

7人の兄弟姉妹の中でも、とりわけ優しかったすぐ上の兄さんが

横笛を上手に使って、いつも奏でてくれた曲、

「♪~一の谷の戦(いくさ)破れ・・・討たれし平家の公達哀れ・・・」

の旋律が、私の心の琴線を揺らして止まらなかった・・・。

すぐ上の兄は、勉強の面で私を随分と可愛がってくれ、小学5年生で中学の英語をマスターし、中学に入るともう、高校のレベルに入った。

こうして、「学歴だけは最高のものを」という両親の希望にこたえるべく、猛烈に勉強した。その結果、私達は3人揃って東京の大学生となってしまった。

それが、艱難辛苦の人生を歩むことになる始まりだとは、夢にも思わなかった。

九州の寒村から大都会の東京へ、かっちりとした将来のプランもなく、ただ大いなる

野心と情熱の気の向くままに飛び込んでしまった。

無謀と言えば、無謀。

(東京に行けば、東京に行けば、何とかなる。頑張ればいつかは、必ず成功する。

そして、父と母を楽にしてやれるはずだ・・・)

荒れ狂う真冬の玄界灘を眺めながら、私は名護屋城の本丸跡に立って決意した。

東京の大学を受験して、優秀な成績で合格しよう。

そうすれば、多額の奨学金がもらえて、授業料は免除。抜群の成績で名門大学を

卒業さえすれば、超一流企業に入社するのも十分、可能。

そうすれば、父母はもとより、家族みんなを幸せにできるはずだ。

私は、当時、若干18歳とはいえ、右も左もわからない田舎者。甘い考えばかりを抱いて、九州の寒村から一人、笈を負って上京してしまったのだ。

思えば、遠くへ。随分、遠くへ来てしまった。

私は過去を振り返れば振り返るほど、郷愁で涙が止まらなくなった・・・。

いつの間にか、私は布団もかけず、畳の上にうたたね寝していた。

翌朝、あまりの寒さに、はっと目が覚めた。

階下に降りて、郵便受けを開けてみると、1通の手紙が入っていた。 

『あきらめるな、ギブアップしたら一巻の終わり。暗くて長いトンネルの中でも、どこかに一筋の光が射していよう。その光に向かって一歩一歩歩いてみようよ。

長い人生にはいろいろある。こんな青春の蹉跌も、長い人生の中の短い1ページだよ。一すじの光を頼りにゆっくり歩きなさい。自ずと道は拓けるはずだ。もういちど言おう、希望を捨てるな・・・』

病床に伏せていた父からの手紙だった。便箋に震える手で書いたのだろう、曲がりくねった文字に、涙のあとがいくつも付いていた。

父から勇気をもらった私は、来る日も来る日も学生部に足を運び、分厚くずっしりと重い求人票のバインダーを片っ端からめくった。

そして桜の蕾が太陽に向かって伸び始めるころ、

私にひとつの転機が訪れた。

「『求む、熱い人材。年齢学歴経歴すべて不問。ガッツのある若者よ、来たれ。

門は拓いている。条件はただ一つ。『世界平和』について英語英会話でnativeと話し合い、理解しあう能力を有すこと』

名もない企業だったが、私にはピーンと来るものがあった。これだ。この会社しかない。私を求めている企業、それはこの会社だ。

「英語英会話でnativeと討論し、理解し合う能力が必要」という難問が

待ち構えているが、「英語は度胸」と中学時代の恩師の言葉を思い出した。

私は、小学校4年生の頃から、当時としては珍しい英語の早期教育を受けていた。

佐賀県の北西部の寒村で英語塾を主宰する講師は、慶応を中退した教師で

nativeに負けない英語力を誇っていた。私はその英語塾に3年間通い、上級生と

英語でディベートし、打ち勝つ力があった。高校に入ると、毎週、映画館に通い、

3本建ての洋画を楽しんだ。これは卒業まで続いた。さらに大学では、朝日新聞から

派遣されていたアメリカ人教師に発音が素晴らしいと褒められるまでになっていた。

自信をもって試験会場に向かった。

数日後、

通知が届いた。

封を切って開けた。

「合格通知」の文字を発見した。

あまりの嬉しさに私はアパートを飛び出し、走り出した。

溢れる太陽の光がまぶしくてしょうがなかった。

この時が

私の転機だった。